「時間がなくて勉強できない」。
私はこのセリフを、人生でたぶん4,000回は言ってきた。資格を取ろうと思い立つたびに言い、買った参考書を本棚にそっと戻すたびに言い、年が明けるたびに「今年こそ時間を作る」と神社みたいなことを言ってきた。言うだけならタダなので、本当によく言ったと思う。表彰されてもいい。
で、ある夜のことだ。ふと魔が差して、自分の1日を分単位で書き出してみた。家計簿ならぬ、時間簿である。何にどれだけ使ったか、正直に、1円も——いや、1分もごまかさずに書く。
結果は、わりと地獄だった。
「なんとなくスマホ:2時間30分」
堂々の1位は、これだ。なんとなくスマホ、2時間30分。
内訳を見て、私はもっと打ちのめされた。半分くらいは、見たかどうかすら覚えていないショート動画。猫が箱に入り、知らない外国人が卵を割り、また猫が箱に入っていた。たぶん。記憶にない。記憶にないのに30分が消えているのだ。これはもう、時間というより記憶のほうが心配だ。
しかも、なぜか同じLINEのトークを3回開いていた。3回とも、特に用はない。指が勝手に開く。指に意思が宿っている。こわい。
残りは「ニュースアプリを開いて見出しだけ読んで賢くなった気になる」と、「明日の天気を1日に4回確認する」だった。天気は、4回見ても変わらない。当たり前だ。でも見る。なぜなら、なんとなくだ。
……時間、あるじゃん。
いや、ないと思っていたのだ。本気で。だって、まとまった2時間なんてどこを探しても落ちていない。仕事があって、家事があって、気づけば夜だ。時間泥棒がいる、とすら思っていた。
犯人は、私だった。
じゃあスマホを断てばいい——と思って、全部失敗した
原因がスマホなら、スマホを遠ざければいい。単純な話だ。私はそう考えて、いくつか作戦を試した。結論から言うと、全敗した。
まず「別の部屋に置く」作戦。これは3分で破れた。気づいたら取りに行っていた。足に意思が宿っていた。
次に「スクリーンタイムで時間制限」作戦。制限の画面が出ても、“あと15分”を押す指がこれまた勝手に動く。制限は、解除するために存在していた。
「通知を全部オフ」作戦は、わりと効いた。が、通知が来ないと逆に不安になって、自分から開きにいくという本末転倒に着地した。もう病気である。
そこで、ようやく気づいた。スマホは敵じゃない。敵は、退屈になった瞬間にスマホへ手が伸びる“反射”のほうだ。だったら、その反射の行き先を、スマホから過去問アプリに1ミリだけズラせばいい。私はずっと、戦う相手を間違えていたのだ。
「時間がない」を正しく翻訳すると
ここで大事なことに気づいた。私が言っていた「時間がない」は、正確に翻訳すると「まとまった時間がない」だったのだ。「1秒もない」ではない。
この2つは、似ているようでまったく違う。
「1秒もない」なら、もう諦めるしかない。寝ないわけにはいかないし、仕事を辞めるわけにもいかない。でも「まとまった時間がない」だけなら、話は別だ。時間は消えていたんじゃなくて、5分・10分の細切れになって、部屋のすみに転がっていた。マグカップの底に残った最後のひと口のコーヒーみたいに、見えにくいだけで、ちゃんとあった。
そして、ここを混同している人間は、こう言い続ける。「いつか、長期休暇でまとめて本気出す」と。
断言するが、その長期休暇は来ない。来たとしても、本気は出ない。私は経験者だ。ゴールデンウィーク、私はテキストの1ページ目を開き、「よし、まずカフェに行こう」と外に出て、そのまま夕方になった。準備運動だけで連休が終わるタイプだったのだ。
あの連休、私はカフェで“準備運動”だけして散った
その連休のことは、わりと鮮明に覚えている。なぜなら、何もしなかったからだ。
初日の朝、私は気合だけは満タンだった。参考書とノートとペンケースをトートバッグに詰め、「家だと集中できない。カフェに行こう」と、それっぽい理由をでっち上げて家を出た。出かける支度に、すでに1時間かかっている。
お気に入りのカフェは満席だった。2軒目も満席。3軒目でようやく窓際の席にありつき、私はホッとしてカフェラテを頼んだ。ここまでで正午。もうひと仕事終えた気分である。
席に着いた私は、おもむろに参考書を開き——まず目次を眺めた。全体像の把握は大事だ。うんうん、とうなずく。次にSNSを開いて「これから勉強する」と高らかに宣言した。いいねが3つ付いた。うれしい。隣のカップルの会話が、少し気になる。そういえば喉が渇いた。ラテを飲む。トイレに行く。戻ってくる。……戻ってきたとき、私の中の「集中力」という概念は、きれいさっぱり蒸発していた。
結局その日、私が勉強した内容はゼロだった。消費したカフェラテ、2杯。得たものは「今日は勉強しようとした」という、なんの役にも立たない記憶だけ。
そして私は、これをほぼ同じ手順で5日くり返した。準備運動だけで、連休が終わった。テキストは、行きと帰りでカバンの重さを稼いだだけで、1文字も減っていなかった。
作戦を変えた。「2時間」を探すのをやめた
そこで私は、戦い方をまるごと変えた。
“まとまった2時間”を探すのをやめて、“そのへんに落ちてる15分”を拾うことにしたのだ。落とし物を拾う係に転職した。
具体的にはこうだ。
- 電車に乗ったら、過去問アプリを1問。 たった1問。座れなくても、片手で押せるやつだけ。
- レンジが回っている間に、用語をひとつ。 「あたため」の40秒は、案外いろいろ思い出せる。チンの音は、勉強終了のゴングだ。
- 歯を磨きながら、昨日間違えた問題を1個だけ思い出す。 手は動いているので、脳は暇している。暇な脳に、仕事を振る。
- 信号待ちで、頭の中で仕訳を1本切る。 青になったらやめる。命のほうが大事だ。
- レジやエレベーターの待ち時間に、用語をひとつ思い浮かべる。 どうせ待つ。待つだけだと退屈だが、用語を1個思い出せば“待ち時間を勝った”気になれる。
- 会議が始まる前の3分。 全員がそろうのを待つ、あの気まずい時間。スマホで1問。誰も見ていない。
- 湯船の中で、今日やったことを1つ思い出す。 スマホは持ち込まない。のぼせるし、何より落とす。私は2回落とした。
机には、向かわない。「机に向かって、ノートを開いて、シャーペンを握って……」とやり始めると、その儀式の重さに負けて、結局やらない。私は何度もそれで負けてきた。儀式を捨てると、勉強はだいぶ軽くなる。
ちなみにトイレも“落ちてる時間”の宝庫だが、ここに参考書を持ち込むと長居して家族にドアを叩かれるので、用法用量を守ってほしい。私は守れなかった。
実録:ある平日の、私の“すきま15分”
言葉だけだと胡散くさいので、ある平日の私の記録を晒す。
朝、通勤電車。座れず、片手で過去問を1問。間違える。「あー、ここか」とスクショだけ撮って降りる(30秒)。昼、コンビニのレジ待ちで、さっき間違えた論点を頭の中で1回再生する(1分)。午後、会議が始まる前の手持ち無沙汰な3分で、スマホでもう1問(今度は解けた。気分がいい)。夕方、レンジでお弁当を温める40秒、用語を1個思い出す。夜、歯を磨きながら、今日間違えた1問をぼんやり反芻する。
全部足して、たぶん15分あるかないか。机には一度も向かっていないし、ノートも開いていない。でも、その日の私は“ゼロ”じゃなかった。
これを「勉強した」と呼んでいいのか、最初は自分でも半信半疑だった。胸を張れる感じはまるでない。でも1年後にふり返ると、この“ゼロじゃない日”の積み重ねが、いちばん効いていた。
目と手がふさがっていても、耳はわりと空いている
もうひとつ気づいたのは、耳が意外とヒマだということだ。目と手がふさがる家事の最中でも、耳だけは空いている。私はここも拾うようになった。
皿を洗いながら解説音声を流す。覚えたい項目を自分の声で録音して、洗濯物を干しながら聞く(最初は自分の声が気持ち悪すぎて死にかけたが、3日で慣れた)。散歩しながら、今日の論点を“誰かに教えるつもり”で頭の中で説明してみる。声に出すと、分かっていないところが一発でバレる。道で独り言を言う変な人になるが、人類の進歩に犠牲はつきものだ。
ただし「ながら」には限界もある。複雑な計算や、図を書かないと無理なやつは、耳だけでは入らない。耳で拾えるのは“軽いもの”だけだ。重いものは、ちゃんと座ってやるしかない。すきま時間は、机をゼロにできる魔法じゃない。机に向かえない日を埋めるための、保険なのだ。
「そんなんで受かるの?」への、正直な答え
ここまで読んで、たぶんこう思っているはずだ。「1問とか40秒とか、そんなんで受かるわけ?」と。
私も思っていた。だから正直に答える。
受かるのは、“15分そのもの”じゃない。受かるのは、「毎日ちょっと触って、忘れない状態をキープできたこと」のほうだ。
人間の脳は、驚くほどキレイに忘れる。私の脳は特に優秀で、3日サボると、まるで最初から何も知らなかったかのような、すがすがしい白紙に戻る。せっかく覚えた勘定科目が、3日で他人になる。「はじめまして、減価償却累計額です」みたいな顔で出てくる。知ってるよ、こっちは。先週あんなに一緒にいたのに。
だから、ゼロの日を作らないことが、何よりも効く。15分は、知識を伸ばすためというより、忘れないための“つなぎ”なのだ。火を絶やさないために、薪を1本くべる。それくらいの感覚でいい。
すきま勉強に、向く教材と向かない教材がある
1年やって分かったのは、すきま時間には“相性のいい教材”があるということだ。
向いているのは、過去問アプリや一問一答。1問が独立していて、どこで中断しても平気だからだ。電車がホームに着いても、心残りなく閉じられる。逆に向かないのが、分厚いテキストを頭から読むやつ。開くのに気合がいるし、3行読んだところで降りる駅に着き、次に開くと「どこ読んでたっけ」から始まる。これを毎回くり返すと、人は永遠に同じページにとどまる。
動画講義は、倍速かつ短い単元に切れているものなら、すきまでも戦える。ノートまとめは——あれは、すきまには向かない。まとまった時間と机が必要な“重い作業”だ。
だから私は、すきま用に「いつ中断してもいい教材」をひとつだけ持つことにした。私の場合はスマホの過去問アプリ。これが、細切れ時間の相棒になった。
「疲れてる日まで勉強しろってこと?」への答え
ここで、当然のツッコミが来ると思う。「毎日って、疲れてる日まで勉強しろってこと? さすがにキツくない?」と。
いや、違う。疲れた日は、休んでいい。私だって休む。残業で頭がオーバーヒートした日に無理して机に向かっても、字が目の上をすべっていくだけだ。あれは勉強ではなく、勉強の真似をした自分を眺める時間である。
ただ、「ゼロ」と「1問」は、天と地ほど違う。これだけは言わせてほしい。布団に入ってから、スマホで1問だけ解く。それも無理なら、用語を1個ぼんやり眺める。それすらしんどい日は、もう寝る。寝るのも立派な戦略だ。
罪悪感はいらない。大事なのは「明日また戻れる状態」をキープすることだけ。1問でも触っていれば、明日の自分はゼロからの再起動をしなくて済む。逆に、完全なゼロが3日続いたら、それは黄色信号だ。私の経験上、3日空くと“戻るのが面倒”という最強のラスボスが現れる。こいつは強い。
だから、つらい日は1問。元気な日は気が済むまで。ムラがあっていい。ムラがありながらも、線さえつながっていれば、それでいいのだ。
立派な計画ほど、3日で死んだ
もうひとつ、白状したいことがある。
私は昔、勉強を始めるとき、まずカラフルな計画表を作っていた。月曜は何ページ、火曜は何問、土日で総復習。マーカーで色分けして、それはもう美しい計画だった。計画を作った時点で、9割満足していた。
そして、その計画はだいたい3日で死んだ。
なぜか。1日ズレるからだ。残業で1日できないと、計画が後ろにズレる。ズレると取り返さなきゃいけない。取り返せないと罪悪感が出る。罪悪感が出ると、計画表を見たくなくなる。見なくなると、終わる。立派な計画は、破れたときに自分を殴るための凶器だった。
今は違う。私が決めているのは、たった一行だ。
「今日は1問」。
これだけ。1問やったら、その日は合格。2問できたらボーナスステージだ。ハードルは、またぐものじゃなくて、踏む高さでいい。むしろ「これ低すぎて意味あるの?」というくらいでちょうどいい。意味は、1年続いたときに勝手に出てくる。
15分を拾うために、私が“やめた”こと
すきまを拾えるようになったのは、何かを足したからじゃない。むしろ、いくつか“やめた”からだ。
ひとつ、「ちゃんとした机でやる」という信仰。机に向かわないと勉強じゃない、という思い込みを捨てた瞬間、勉強できる場所が家中・街中に一気に増えた。
ふたつ、いちばん時間を溶かすアプリを、ホーム画面から消した。アンインストールはしていない。ただ、開くまでに2タップ増やしただけ。それだけで、無意識に開く回数が目に見えて減った。人間は、ほんの少しの面倒に弱い。私だけかもしれないが。
みっつ、「完璧な1日」へのこだわり。全部きっちりやれた日を“成功”の基準にすると、ほとんどの日が失敗になってしまう。だから基準を「1問でも触れたら成功」まで下げた。成功の日が増えると、不思議と続く。人は、減点法だと続かない。
やる気は、始めた“後”に来る
「やる気が出たらやる」と言う人がいる。昔の私だ。
でも、やる気は待っても来ない。あれは、エンジンをかける前のガソリンじゃなくて、エンジンを回したあとに出てくる排気ガスみたいなものだ。順番が逆なのだ。先に5分だけ手を動かすと、不思議と「あ、もうちょっとやるか」と乗ってくる。乗ってこない日もある。その日は5分でやめる。それでも、ゼロじゃない。
やる気が出ないのは、あなたが怠けているからじゃない。順番を勘違いしているだけだ。たぶん。私はそう思うことにして、今日も机に向かわず、レンジの前で用語を1個思い出している。
で、1年すきま時間を拾い続けたら、どうなったか
正直に言うと、劇的なビフォーアフターはない。痩せて垢抜けて人生が一変した、みたいな話ではないので、期待していたらすまない。机に向かう“立派な勉強”は、相変わらずほとんどしていない。
でも、ある日ふと気づいた。過去問アプリの正答率が、いつの間にか上がっているのだ。「あれ、これ前より解けるな」と。派手な右肩上がりの成長曲線ではなく、地面そのものがじわっと持ち上がっていた感じに近い。自分ではいちばん気づきにくいやつだ。
そして、それ以上にデカかったことがある。「勉強を続けている自分」が、当たり前になったことだ。あれだけ三日坊主だった私が、気づけば止まらなくなっていた。1問が歯磨きみたいになって、やらないと逆に気持ち悪い。ここまで来ると、もう勝ちに近い。
結局、すきま15分がくれた一番のものは、知識そのものよりも「私でも続けられた」という小さな実績だったのかもしれない。それは点数より、ちょっとだけ自信になる。
時間は、増やすものじゃない
結局のところ、時間は増やせない。1日は24時間で、これは私が何回お願いしても変わらなかった。
でも、見つけることはできる。たぶん今日も、あなたのスマホの中に15分くらいは光っている。猫が箱に入る30秒を1回だけ我慢すれば、過去問が1問解ける。それを1年続けた人が「合格しました」と報告してくるのを、私は何度も見てきた。
だから、まずはスマホを置いて——いや、このページもスマホで読んでいるかもしれないから、置かなくていい。そのまま、過去問アプリを開いてみてほしい。1問だけ。今日のところは、それで充分だ。